管理人の住む三木里町では、海開きの前に浅間神社の山開き神事が行われる。男衆は4日の間、宿と呼ばれる仮屋に篭り結界を張られた部屋で過ごす。身を清めるために精進料理と酒だけを口にし、海で垢離をかく。
本祭の4日目、早朝に祠のある山の一番高い木のてっぺんに竹に刺した御幣を括り付ける。祭りの期間中、山は女人禁制。女性は近づけない。1年間風雨にさらされ町を守った御幣を山から下ろし、榊や洗米とともに町の人々に配りながら町中を練り歩く。この御幣、半世紀ほど前は細い竹筒に入れ子どもの首に下げられたそうで、海や川で遊ぶ際のお守りだったそう。そして祭りを無事に成し遂げた男衆には、冷えたビールと肉・魚の料理が振舞われ過酷な神事を終え労われる。

本祭前日・朝の竹切り
三木里に住み始めて2度目のお山祭。今年も定住移住協力隊のエースみずきが参加します。加えて三木里移住組のイケメン2名も参加と相成り、朝一で御幣に使う竹の切り出しから追っかけ取材。




全員が先達から盃を受け、浜に建てる御幣をつけるための竹を切り出しに裏山に向かいます。この祭りの期間中男衆は素足か足袋で通します。この時期は梅雨時なのでここ数年曇天か雨模様が続いています。しかし、アスファルトの上を素足で歩くわけですから、晴天でなくてよかったと言えますよね。切り出した3本の竹は1番、2番、3番の長さに切り余分な枝を払います。
御幣(ごへい)
竹の切り出しを終えて、仮屋に戻り御幣を竹に固定していきます。御幣は麻(そ)と呼ばれる麻の紐でどちらを向いても正面になるように結ばれます。竹に付けられる御幣は全部で4つ。それぞれ20・40・60・80枚と紙垂(しで)を重ねる枚数が異なります。御幣やしめ縄をはじめ祭の準備は前半の2日間に粛々と進められていきます。


夕垢離
17時になると夕方の垢離かきの時間。朝用意した御幣をつけた竹を担いで男衆が浜に向かいます。御詠歌を謳い太鼓を打ち鳴らし、心地よいリズムをとりながら練り歩く姿が勇ましい。









お山祭3日目は、7時頃の朝垢離、11時頃の昼垢離、15時頃のおやつ垢離、17時の夕垢離のあと、20時頃のまずめ垢離、23時頃の夜中垢離と続く。
開けて本祭
日の出よりわずかに早い4時頃に行われる朝垢離のあと、いよいよクライマックスの本祭が始まる。ここからは女人禁制。三木里神社のそのまた上に祀られる浅間神社(分社の木船神社)横にそびえる30mを超える杉の木に縄ばしごで登り、その隣にそびえる大楠に渡した縄1本で移り一番高いところに御幣をつける神業。杉の木には3名の中継者を置き、初穂竹につけた御幣をてっぺんで待つ結び手に届ける。大きな声では言えませんが、神事ということで神さんのご加護を信じ、修験道の荒行のようなこの高所作業に保険は掛けられていないという。まさにこれぞ信心極まれり。今年も嵐のような大雨の中、大きな怪我もなく無事に御幣が納められました。




毎年6月28日〜本祭の7月1日まで4日間、曜日に関わらず続いてきたこの祭りは300年以上の歴史を持つという。昨年も今年も10名ほどで行われたが、最盛期は200名が集う大きな祭りだったそうで、人口の減少とともに担い手が減少しているのは、日本中の地域が抱える問題と同じ。この祭りを途絶えさせないためにも新しい人の流れを途絶えさせてはいけない。
新しい御幣を奉納した男衆は、里に下りると太鼓とともにお山の唄を謳い榊で「しばたたき」をしながら町を練り歩きます。ドサ回りというそうですが、この時は、冷たいビールや温かい肉や魚を使った料理でもてなされます。里の人の話では、子供の頃、酔っ払ったおじさんに榊で叩かれるのが嫌だったという声を多く聞きます。現在とは規模も違い100人も200人もの大人たちに榊で追い回された当時の子どもたちの気持ちもわかるというものです。配られた御幣は、細い竹筒に入れ子どもの首に下げられたそうで、海や川で遊ぶ際のお守りだったそう。
歴史を重ね大切な行事として継承しているものの、やはり時代に合わせて変わっていかざるを得ない部分もあるそうで、以前は、本祭の前日は仮屋から一夜の宿という別の場所に移動し、本祭に備え精進潔斎する習わしが続いて来たものの、現在は宿と呼ばれる仮屋を先達の家に設け全てをその場所で行なっている。時代は変わっても残し繋げていきたい文化。浅間信仰は日本各地に広く伝わっているものの、山開きの行事を続けているところは稀だという。三木里の美しく神々しい誇るべき伝統。大切にしたい文化です。
2年に渡り追っ掛け取材をしたお山祭。2020年と2021年の画像を使用しています。また、女人禁制のお山には踏み込めず、東紀州地域の漁村を撮る人@hkisyuuさんのTwitterから画像を拝借しています。
それでは、hasta luego!!